新たな自分を発見する

成長とはいったい何でしょうか。

私たちは「成長」という言葉をなにげなく使っています。でも、よく考えてみれば自分なりにしっくりとくる成長の意味を見出している人は少ないのではないでしょうか。
自分にとっての成長ということです。

辞書を引けば「成長(せいちょう、英: growth)とは、生物や物事が発達し大きくなることをいう」(ウィキペディア)、「育って大きくなること。育って成熟すること」(広辞苑)・・・と意味付けられています。

もう少し進んで成長についての語録を見てみれば、
「成功は必ずしも約束されてはいないが、成長は約束されている」
「成長とは豊かな仕事をするようになること」
「仕事のやり方を変えたのではなく意味を加えることができたときが成長」
「成長は可能性を広げる変化」
など、人によって限りなくその解釈が出てきます。

しかし、これらはすべて「ことば」です。
ことばとして「成長」という意味を理解しようとしているにすぎません。

大切なことは、これらの言葉の意味が自分の実感とどのようにつながり、染み入る感覚まで持てるかどうかだと思います。
それは自分にとっての成長という感覚が、シーンやイメージを伴ってありありとよみがえり、今の自分と結びつけられ、連続的な自分自身の成長感を感じられるということです。
それが成長実感です。

自分自身が成長しているということを生き生きと感じることができれば、もう言葉などいらないとさえ思えます。

私たちがキャリアを語る際に重要なことは、この「ことばの意味解釈」と「実感」との両方をしっかり扱うということです。
ところが、昨今のキャリアブームではことばの理解に傾注しすぎ、実感や味わい、感覚が置き去りにされているのではないでしょうか。実感が大事とは思っていても知識を身につけることで息切れし、その後の最も大切な感覚の世界までたどり着けない状況です。

ひとはことばで考えます。そして、ことばでひとに伝え共通理解をはかります。ことばがしっかりしていなければ思想は成り立ちません。ことばを大切にできない人は実は社会的なコミュニケーションの芯が弱いと言えるかもしれません。
「知る」「わかる」ということは万人が知り合えることを前提とする相対的な世界でありそこには必ずことばが存在します。

片や実感するとはどういうことでしょうか。成長実感の実感です。この感覚はお互いに知り合えるのでしょうか。
そこには自ずと限界があります。いくら脳科学が発展し、感覚を司るクオリアの解明が進んだとしてもそれぞれの感覚を共有することとは別問題です。

より良く生きることをテーマとしたキャリアでは、生きざまの理解を超えて生きざまを感じることが本質なのであり、そこに成長実感という感覚の世界を味わう重要性があるのです。
ひとは原始では本能の動物であったので、根幹には感情が居すわっています。それがあるときジャンプし、ひとに理性があらわれ考えることができるようになりました。現代に至っては私たちの根幹にある感情との付き合いが薄れ理性による浸潤が繰り返されイデオロギーと情報化社会が主流となったのです。一見合理的と思える考え方が台頭し、効率効果と生産性の世界観が圧倒的となった世の中はすこぶる便利になりました。しかしそれと反比例してストレスが発生しています。現代は感情を抑えたストレスと引き換えに便利さを獲得していると言えるのです。
つまり、生きざまや働きざまを扱うキャリアが合理の世界で終始し、結果的に表面的な知識やスキル、経済的報酬や地位やステイタスなどの外面的なキャリアを追い求める傾向にあるのです。典型的なのはマッチングを中心とするキャリア論の展開です。その場の瞬間的な基準の伴うマッチング。就職することや企業内のポジションに就くための理想的な発揮能力の提示によるマッチングの仕組みやHow toです。このような世界では、「キャリアアップ」「キャリアプラン」などのきれいなことばが並ぶ機械論的な因果関係の理解に終始しがちです。
その先にある個々人の元気や生き生き感、成長可能性や成長実感、その集合体である企業の元気と成長のプロセスダイナミズムがまったく視野に入っていないキャリア論が横行しているのではないでしょうか。
さらに、仮に合理の世界を超えた自分らしさという実感の世界を展開しようとしても、その理解を求める立場の人たちが合理的な説明の操作に傾注するあまり何が何だかわからない世界が散見されるのです。

感情や感覚の扱いは別な見方をすれば、わたしたちの中にある「野性」とどう付き合うかということです。
野性によって競争が起こり頑張る原動力になる。野性によって愛が生まれ子孫が残る。野性によって安全な行動をとる、などです。野性が暴れれば時として犯罪や非人道的な行動に至るのですが、しかし野性にはワイルドという側面と同時に「野性のやさしさ」という側面があります。野に咲く花は野生です。そのやさしさは誰に見てもらおうとも主張せずにただそこにある野性の姿だからこそ人はひとしおの感動を覚えるものです。
絵画や音楽などの芸術、そしてスポーツ。それは思想ではない感情や感覚の世界で展開されます。そこに野性を活かしたひとの素晴らしい共感の場があるのです。芸術やスポーツの普遍的な本質はきっとこの感情の共鳴・共感を通じて人々が知り合えるということにあるのであり、この知り合う内容は道理的な理性の世界の思想や意味を知ることとは全く違った世界なのです。

このようにことばを通じて知り合うという世界と、理屈抜きに感じる感情の世界の中間点に私は「信じる」という大切なものがあると思っています。

信じるとは、ことばを通したコミュニケーションや思想の交換とは全く違います。信じることはもっと自分勝手です。万人のごとく理解できなくてもいいものです。自分だけが信じられる世界を持っていればよいのであって、信じるものを誰かにわからせようとか、誰かを封じ込めようとか、誰かを説得しようというものとは本質的に違う世界です。
ですから信じることの本質は相対的なものではなく、自分だけが信じられることで良しとする絶対的なものです。
それはまさに自分の感覚、つまり感じるところを信じるということに他なりません。そして、その感じるという自分だけの真実をどのように解釈するかどうかが信じるということだと言えるのです。自分流に信じるのですから、そこには自分にしかわからないかもしれませんが、自分にとって確かな真実があるのです。
自分勝手に信じることが社会的に無節操に横行すれば社会が乱れてしまいます。ですから信じることはとても重いことであり、自分自身で最終的には責任をとらなければならない覚悟がともないます。盲目的に信じることはこの自分で責任をとることを放棄しています。
ところがこの信じる世界も最近は他者とつるんで信じるという世界が台頭しています。○○会、○○クラブ・○○ネットワーク・など本来自分が信じるところに真摯でいるべきものが、○○会的に信じる、○○クラブ的に信じるというように徒党を組んで信じる傾向にあるようです。
これは自分自身で思索を深めることを放棄していることと同じです。
○○流に信じるなどはそもそもあるはずもないのですが、そのような他者への依存傾向が高まっているのはその方がはるかに楽だからです。それを助長しているのが最近はやりの「いいね」ボタンです。

自分自身との対話はつらいものです。楽ではありません。自分以外の何かを基準に信じたつもりになる方がその場が凌げます。これは、その場を流すための割り切りによって現代のスピード社会と表面的なコミュニケーションをとろうとしているのだと思います。
つまり、世間的な基準を盲目的に信じているということではなく、世間的な基準で動くしか現代の環境変化についていけないと思いこんでいるために○○流に信じるという世界が逡巡しそれでよしとなっているのです。

けれども、自分にしかわからない世界とは自分の感情であり、それは動かしがたい自分にとっての事実であり、他者にはわかろうがわかるまいが関係のない自分自身が孤高に信じることからしか本来は始まらないのです。
感情は否定しようもない自分だけに発生している事実です。その事実を自分がどれだけ真摯に受け止め、それらの中から何を信じるかという自己信頼を確立させていくことができるかどうかが問われているのです。
合理的なフレームワークのジョハリのような理論でこの信じる世界を語ろうとしても、それはあくまで相対的な万人が知るべき世界のことを扱っているのであり誰にもわかってくれなかろうとも絶対的に己が信じるという世界観とは次元が異なり信じることを確立することにはなりません。世間的な学術的な適性からはじめて自分を定義し方向性を決めようとしてもそれはあくまで他人任せであって本当に強く、深く納得している自分ではないのです。
このパラダイムの違いを理解できているかどうかがポイントになるのです。
感じ、信じる世界の自己受容、自己信頼や自己肯定感をいかに確立させていくのかということが現代の知の共有における最大の課題と言えるのではないでしょうか。

現代の大きな病は、誰もが納得する「知る」だけの世界を中心にライフキャリアも仕事キャリアも論じられ、正解探しに入り、世間が合意するもので自分が安定するという幻想の中に生きていることから発生している自己肯定感のなさ、だと言えます。
自己肯定はキャリアのベースです。自己肯定は自然の自分を受け入れることからしか始まりません。できない自分、迷っている自分、不安な自分を受け入れて自分を肯定する。その肯定は教科書的な正解に沿っているかどうかという肯定ではありません。まして、サーベイなどの診断で規定するという浅薄なものではないのです。迷いや不安は万人に共通する正解の中で発生しているものではなく、自分の内から引き起る感情から発生してくるものです。

もしも、うすい自己愛、ナルシズムで生きるならば、自分大好きという世界は他者からの評価を目的とした自己認知欲求、自己顕示欲求の塊となるでしょう。このような自己愛はヘマな自分は受け入れがたいことになります。そこではすべて他者評価を意識した言動に終始するからです。

このように書くと、相当ストイックで宗教的な香りがするかもしれません。
キャリアとはそのような精神論的なものなのかと感じられるかもしれません。
でも、そこまで考えていないキャリア学とはいったい何なのでしょうか。

自分の職業適性を固定的に考えるマッチング論、生きざまや働きざまの中心を見つめずそこから発生する経済的報酬や地位やステイタス、現時点でのスキルや能力だけに集中する外面的なキャリア論。節目でない時には漂流していても良いとすることが表面的に語られているキャリア論。それらはもちろん大切ですが、それらはあくまで固定的で短く狭い時間の中だけで適応されるものです。また、それらは他者を意識した概念です。そして、それらは割り切りです。
このような論だけが台頭すれば他者に理解される世界だけを見続けることとなり、自分は何を持っているのかという「持つことによる自分の存在」のキャリアばかりになってしまいます。何を持つかということは、自己顕示であり、承認欲求の塊です。

しかし私は、この世界を否定しません。およそ、ビジネスの世界ではこのようなエネルギーがとても大事だからです。
みなさんの周りを見てみてください。出世している方々にこのような力学が働いていないことはないと思います。それはそれでいいのです。
人事制度のコンピテンシーの世界では、理想とする人材像をコンピテンシーとして能力分解しているにすぎません。会社が決めた理想やモデルとする人物像に各自を近づけようとするはめ込み型の操作です。それはそれで「理」なのであって大切なことだと思います。

しかし、ものごとを長く、広く、深く見つめるならば、それだけでうまくいくはずがないことはすぐにわかるはずです。
本当の強さはしなやかさであり、信じることです。影響の根源は自己顕示ではなくそこにおかれた自分自身の存在を大切にするという目立ちはしないが自分を肯定できるかどうかの在りようだと思います。

現代の特徴は、この感じる感覚と信じることが押し込められてしまっていることであり、そのことが「げんき」を失わせている根本的な要因のひとつであると私は思います。
世の中の対話、特にSNSのような一方的な発言が許容されるコミュニケーションツールでは、なんと一方的な「説得」が横行していることでしょうか。それは、知るという世界をこえて自分の信じることの押し付けや自分自慢の横行です。その裏には自分を認めてほしいという思いが必要以上に見え隠れし、さらに自分の知識がどれだけ偉いかのひけらかしにまでいたります。要は「私はすごいでしょ!」と認められたいだけなのです。テレビを観ても事実を多角的に伝えてその判断を視聴者に任せるというスタンスはなく、ワイドショー的な薄い思想の押し付けが当然という有り様です。
そのような浅ましさにわたしは生理的な抵抗を覚えます。

さて、成長についてもう一度考えてみます。

私の成長の定義は、
「成長とは、自分の中の新たな可能性を発見した瞬間。自分の中の可能性が開花する瞬間。この可能性の開花とは、可能性が現実的な力となった手ごたえ。それが成長実感の瞬間」
ということです。

しかし、これとてわたしが長年考え抜いた精一杯の定義でありことばなのです。
新たな可能性を発見した瞬間とは、驚きであり、戸惑いであり、見えたという感覚であり、拓けたという興奮であり、ひらめきです。それは今までの心のわだかまりが取れた瞬間と言えるかもしれません。
これはことばで知識を共有するという世界観ではもちろんなく実感できるかどうかが問われているのです。まさに「愉しい(≠楽しい)」感覚です。
この感情を連続的にいかに続けていけるかがキャリアであり、成長実感ということだと思います。
それは、自分が信じられるものをいかに発見していくかということではないでしょうか。

2022年1月1日   黒川 賢一

黒川賢一

黒川  賢一   K's labo LLC.代表

1988年リクルート入社。営業、新規事業開発、地域活性事業、若者就業支援などの事業を手掛け2009年リクルートキャリアコンサルティング社へ。事業開発室を開始し、‘日本を企業から変えていく’研究会を立ち上げる。2013年K’s labo LLC.を設立、代表に。同時に、慶応義塾大学SFC研究所キャリア・リソース・ラボの研究員。

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