莫逆の友
このたびの設立、その新しい第一歩に、そして黒川賢一さんの勇気と決断に、心からの敬意と祝意を表します。
私にとって黒川賢一さんは、いつも熱く、真っ赤に燃える、魂の言葉を与えてくれる、唯一無二の存在です。
その示唆に富む言霊に、何度も、何度も、気づきを与えていただき、救われてきました。
その黒川さんから、今回の設立にあたって開設するホームページへの寄稿文のお話をいただき、大変光栄なお話であり、お声をかけてくださったことに心から感謝し、今、考えていることを少しばかり表現し、お役立ていただければと思い、引き受けさせていただきました。
「設立趣意書にかえて」の中に記載がありました「中間地点いる普通の方々」の実践的なサポートについて、少し自問自答してみました。
中間地点にいる普通の方々は、何に、「好奇心」を持ち、「謙虚」・「寛容」になり、「傾聴」し、「感謝」し、「感動」するのでしょうか?
自己肯定の中で自己実現を図るために、一人ひとりに、どのような気づきをもたせ、行動変容へと移行させ、そして、自らの人生の成功へと導いていったらよいのでしょうか?
どのようにして、メンバーひとり一人を輝かせればよいのでしょうか?
気づけば、メンバーひとり一人の「意識が変わっていた、行動変容が起きていた。」と感じさせるものが、日常の普段のなにげないやり取りの中で見出すことができないものでしょうか?
自分の意識が変わらなければ、自分の行動は変わりません。
言葉で言うのは簡単ですが、現実には「意識を変えて!」と言われても、そう簡単に変えられません。「行動を変えて!」と言われてもなかなか変えられないのが普通の人ではないでしょうか。
意識の本質、行動を生み出す本質、行動変容を起こさせる本質とは、いったい何なのでしょうか?
あきらめない気持ち、努力し続ける気持ち、へこたれない気持ち、失敗しても再び立ち上がろうとする気持ち、そして、自己の存在を愛することができ、関わる人すべてに感謝し、愛を与えることができる気持ち。
また、チーム活動を前向きに次のステップへと変化させる気持ち、こうした気持ちを支える個々人の「こころの力」が意識の変革と行動変容へと導く根源にあるものだとわたしは感じています。
一人ひとりが持つこの「こころの力」を高めていかなければ、上手くいかなかったとき、失敗したとき、壁にぶつかった時に、自ら悠々と乗り越えていくことはできないのではないでしょうか。
なぜ、もっとこの「こころの力」に目を向けられないのでしょうか?
人はどうしても「目に見えるもの」によって物事を判断し、評価を向けるのだと感じます。
組織の一員として考えたとき、自分の目に見えるもの、つまり仕事の出来映え結果、そして、目や耳から入ってくる言動にとらわれ、結果を生む行動特性(いわゆるコンピタンシー)を分析評価し、「なんとか力」や「なんとか力」を高めることばかりに目が向けられているのではないでしょうか。
分析評価を受けた「なんとか力」を高めるために、「学習せよ!」、言動に問題があるので、「このような表現で、このような行動をしなさい!」といっても、誰もが簡単に変化することができるものではありません。
人は、他人に「変われ!」と言われたからといって、すぐに納得がいって、言動を変えることができるほど単純ではないと思うのです。
「指示の仕方が悪い!」とか、「言っている意味が良く分からない!」とか、「環境が悪い!」とか、「そもそも、あなたが嫌いだから、素直に受け入れられない!」だとか、感情の側面から、そうそう簡単には、受け入れられないものではないでしょうか。
「こころの底から、本心から、自らが求めていることを!」、「自らがその不足に気づき、必要と感じたことを!」、そうした自己の認識を得て、初めて行動変容に移せるのではないかと感じます。
その根源にあるものが、自己を認知する「こころの力」。感情を表現する「こころの力」。
「こころの力」は目には見えません。「目に見えないもの」にこそ本質があるのだと感じます。
「目に見えないもの」は、とらえようがありません。そこで、今までは、仕事の出来映えや結果を通して目に見える、「言動」や「行動特性」に焦点を当ててきたのではと感じています。
わたしは坊主の家系に生まれたようです。
祖父はお寺の住職でした。伯父も寺を開き、従兄も住職でした。その寺は、現在、従甥がついでいます。
血は水よりも濃い、DNAは恐ろしいと感じることがあります。なんだかんだいって、興味があるのです。気になってしまうのです。
だから、少しだけ書きます。
「色即是空 空即是色」
皆様も良くご存じの、仏教典「般若心経」にある言葉です。
「色」とは「すべての形あるもの」のこと、簡単に言えば「目に見えるもの」。
「空」とは「実体がなく虚空であること」つまり、「目に見えないもの」。
「見えるもの」は「見えないもの」からできている。形ある見えるものは、必ず形をあらわす本質がある。本質は見えない。
見えるもの「色」には必ずその形をあらわす本質がある。本質とは見えない「空」。すなわち「色即是空」。
見えないもの「空」が、見えるすべてのもの「色」の本質である。すなわち、「空即是色」。
「空」はすなわち「いのち」の源。「いのち」の源が、数多くのわたしたち「人」としての形をあらわす、すなわち「色」となっているのです。
「人」=「色」は、「いのち」=「空」です。
あなたの「いのち」も、わたしの「いのち」も、この世界に唯一の実体である「人」であるとともに、あなたもわたしも「空即是色」。あなたはわたし、わたしはあなたなのです。
このことから何がいえるのか? つまり、「本質」は、「あなたとわたしの中にある。」ということです。
関係する「あなたとわたし」、「対峙するあなたとわたし」、「あなた達とわたし達」、の中にしか『「本質」かつ「答え」らしきもの』、はないのではと思うのです。
自分を愛するようにすべての人を愛せということでしょうか。キリストは隣人から救うといいます。ここに「こころの力」の「本質」があるのではないかと感じています。
また、仏教には「無常観」があります。「常にそのままで無い。」すなわち、「すべてのものは変化している。」ということです。
「人は変わらない。」「変化は難しい。」と言いますが、今この瞬間にも、あなたもわたしも変化しているのです。常に同じあなた、わたしではないのです。昨日と同じはあり得ないのです。
その変化を私たちは「老い」の中に特に強く感じます。すなわち「生きる」ということは「変化する」ということです。
人生のこの変化の中で、四苦八苦「生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦」といわれるものに、私たちの心・精神は大きく支配されます。
この支配からの脱却は、「自己の認知」により、「受容」し、かつ、「断捨離(捨てること)」で、乗り越えることができるのではないかと考えます。
別に、宗教にすべての解決を求めているわけではありませんので、誤解のないようにお願いします。
黒川さんは、大きな愛を、関わるすべてのみなさんに送っていると感じます。
私も、大きく深い愛をいただきました。
自分を好きになり、他人を好きになる。人間を大きくとらえ、全てを許す感覚を持つ。相互にとらえられるこの感覚。ここが大事なのだと思います。
「灯りを消せ!!」私が、昨年に感じた感覚です。
灯りを消すことで、精神の光が見える。意識の中の灯を消し、あきらめることで、執着を捨てること(断捨離)で、自らの精神(心)のあらたな部分が見えてくる。その時にまさに、今までの一つの終わりと新たなはじまりを感じました。
『主観が「知識」の次元で客観と対立的に用いられるのに対して、「主体」は行為の立場にあり、それに対立するのはやはり「主体」にほかならない。』と何かに書いてありました。
若いころは「羨望・嫉妬」と常に戦っていました。いや、若いころだけでなく、最近までひとよりも、深く大きく、こだわりを持って感じていました。
5年前、私は大きな決断のもとに手術を受けました。入院・自宅療養で約5カ月休みました。こころも体も思う通りにならなかった。様々なモノへの執着心が襲っていました。やはり、「羨望・嫉妬」に大きくこころを支配されました。
この「心の弱さ」に気づけたのは、自らの宿命(過去の業の深さ)に正面から向き合い、ある意味、あきらめた(断舎利:思いを捨てた、ある煩悩をすてた、目の前の灯りを消した)ときでした。
そのあとに、遠くにあった光が、自分の近くに来たとでもいうのでしょうか、その光を感じた時、今までの自分が滑稽でしょうがなく、この数年間の姿を振り返り想像した時、大笑いできました。「馬鹿だな~、みっともなかったな~。」と。でも、そんな自分もある意味で、その時のまぎれもない主体であり、自らの姿を「笑い飛ばせる自分」もまた、主体なのです。
本気で、笑えるようになったのも、「笑い」が本当に大切だと心から気が付いたのも、つい最近です。「笑い」の大切さに気付かされたのは、私の妻の人生でした。
人が、自分をある意味あきらめること、執着を断つことで、裸の自分に気づくのです。なんで、こんなことに執着していたのか、自分で自分を笑い飛ばすことができるかどうか。
ひとは、おもしろく、愛すべき存在。そして、かわいい、馬鹿だなーと思うことのできる、あなたであり、わたしなのです。
さまざまに書いてきましたが、すべてに優るものは「自己の経験」だと感じます。ひとは、互いの経験の中でしか、人を導くことはできないと思います。
自分だけではなく、すべての人が同じような経験をしている、同じように生きている。
人は、ひととともに生きることに「好奇心」を持ち、ひととともに生きるために「謙虚であり、寛容であり」、ひととともに生きるために、「傾聴し」、ひととともに生きていることに「感謝」し、ひととともに生きていることに「感動」するのです。
一人ひとりの経験、互いの人生の中にこそ、互いの人生を輝かせ、互いの人生の成功へと導く答えが隠されていると思うのです。
現在の戦略リーダーのリーダーシップやトップダウンで導かれるメンバーや組織のイメージとはちがう、大きくとらえれば、その人の人間力、人格、個性を受入れ、また、前面に出させ、人とチームを、仕事を調和でき、統合でき、まわりに共感を持って受け入れられ、示すことができる。それが、ある特定の人物だけが行うのではなく、チームのすべてのメンバー一人ひとりが、それぞれのプロジェクトに対し、そうなることができる。つまり、一人ひとりが主人公になれる。また、そうなりたいと思うチーム風土への成長と変化。
実践ができなければ、現実の力にはならない。理屈ではなく、良きことと感じる個々人の感性、感覚・主観の中に、『心におちる、丹田におちる「生命エネルギー」のような何か!!』を強く感じさせることができれば・・・!!
私は、学者ではありませんので、理論ではない、「感性、感覚・主観」の大切さ、「なんかおかしい!」と感じることで、未然のリスクを防ぐという経験や、いつもと違う彼の言動(メッセージ)から、大いなるきっかけやチャンスをどう感じ取れるか、など、日常の普段のなにげないやり取りの中に、「エネルギー」を見出す感覚がいかに大切か、ということを伝えていくことができれば・・・と考えています。
最後に、禅の言葉に、一つの答えらしきものがあると感じましたので、紹介いたします。
「随処為主」私の母校の校訓です。
(常に主体性を持つこと。人は環境や境遇に左右されて行動しやすいものであるが、どのような場合にも主体性を失わずにいきることが真の生き方である。)
「随処作主立処皆真」禅の言葉です。
(「随処に主となれば、立処みな真なり」どんな環境にあっても自己の主体性を失わず、何者にも影響されること無く、常に自らが主人公となって物事を処理してゆくことができれば、どこにいても真理を具現することが出来る。)
自らの役割を自らが大きくとらえ、自ら考え、主体的に行動する。
互いが「主体」、「主人公」であるとき、個であるひとり一人が互いに輝きをはなち、相乗効果として、チームが、組織が、大きなエネルギーを得るのではないでしょうか。
黒川賢一さんの新しい挑戦に心をこめて!!
すべての本質は、ひとり一人のこころの中に、こころの力を高める気づきをすべての方々に。
黒川さんの今までのすばらしい経験の中から、これから会える未来の黒川さんの経験の中から!!
長文、乱文で大変に失礼いたしました。簡潔には書けませんでした。
2013年6月25日
浅沼 俊和