慶応義塾大学 名誉教授 政策・メディア研究科委員
専門分野/人的資源開発論・国際経営論、特に国際人事システム論
新人事組織設計論を中心テーマとして研究、SFC研究所キャリア・リソース・ラボの代表者
2013/6/26『「働く居場所」の作り方』(日経新聞出版)が出版されたばかり
キャリアとは一体なんなのかを考えることがあります。
私はキャリアをもちろん定義しています。ダイナミックプロセスであり、成長実感やキャリアチャンスの拡大を通したストレッチングをキャリアと考えています。でもそれは皆言葉であり、キャリアを語っているものにすぎません。私はキャリアは「生きざま」そのものという表現も使います。もし生きざまを感ずることができれば、言葉ではなく、能動的に生きている証しとしてキャリアを捉えることが可能です。でも感ずることはなかなか難しい。フェルトセンスを磨くことが重要かもしれませんが、体感至上主義に陥ることにもなりかねません。
キャリアとは一体なんなのかを考えることがあります。
私は20年前に大きな自動車事故にあいました。首の骨三本、頸椎の3,4,5を圧迫骨折したのですが、その時、車から放り出され、地面にたたきつけられ、全く手足を動かすことができない状態の中で、救急車がくるまでの間、私の頭によぎったのは、「これで少し休むことができる」という感覚でした。ダイナミックプロセス、生きざま、いろいろ定義はありますが、能動的に生きることからくる自己正当化は自己肯定感とは違います。「少し休むことができる」は能動的に生きてきたといっても、でもそれに振り回され、自分を見失ってしまっている状態であり、自己肯定にはつながりません。
キャリアとは一体なんなのかを考えることがあります。
自己肯定こそが、一歩踏み出すには重要で、一歩踏みだすことがキャリアであるなら、自己肯定はキャリアのベースです。自己肯定は自然の自分を受け入れることです。できない自分、迷っている自分、不安に思っている自分も含めて、自己を肯定する。そして、それを抱えながらも一歩踏み出す。これが第一歩の踏み出しの重さであると思います。自然の状態とは、正当化をしない自分の状態であり、合理化をしない自分の状態でもあります。ドジであっても、へまをしても、そんな自分が大好きになれるかどうか。自己愛ではへまな自分は受け入れません。それを忌避し、かっこいい自分を作ろうとします。でも、へまな自分であっても、そんな自分が大好きそれを見つけるプロセスがキャリアなのかなとも思います。
キャリアとは一体なんなのかを考えることがあります。
生きざまであり、でも自分を見失うようなムリな能動性をもとに自分を追い込むことではなく、へまな自分であっても自分を受け入れる状態にまで自分を信じて活動できる、その自分のこころのしなやかさを確立していくプロセスかとも思います。こころのしなやかさをもつことへの道がキャリアとすると、私は自分のキャリアが愛おしくなります。自分のキャリアの成り行きにとても愛着をもてるような気分であり、じーんとした、しかしこれから先がワクワクするような気持にもなります。自己愛/ナルシズムとは違う、意識して達成しようとする自己肯定感とも違う、ましてや正当化する自分とも違う自分のキャリアがそこにあるような気がします。私は自分のキャリアを、ひよっとしたら、とても好きなのかなとも思える、そういうキャリアであるという気もしています。確証はありません。でも、じーんとくるような自分を感ずることができます。
黒川さん、黒川さんがこれから独立され、新たな道を歩まれようとしている時、黒川さんにとってのキャリアとはどのようなものであるかを考えました。でもそれはどんなものであるかを考える必要はないのではと思いました。黒川さんが、自分にとっての生きざまや生きる証しといったものである感じを持つ必要もないと思いました。意識して達成する自己肯定感に向けたプロセスでもないと思いました。私と同じように、自然の状態で、自分自身を受け入れ、しなやかに生きるプロセス、それが黒川さんのキャリアだろうなと思いました。黒川さんがしなやかに生きるプロセスに向けて、新たな一歩を踏み出すことにエールです。私を含めて、黒川さんが接する人たちに黒川さんの温かさや、ぬくもりや、じーんとくる感触を共有できる機会を黒川さんがつくろうとされておられることにエールです。
しなやかさとはつらいことも、苦しいことも、全てを包み込んで生きるプロセスですよね。一緒にしなやかにいきましょう。みんながよりそい、相互に支援し、啓発するからこそ一緒にしなやかにキャリアを歩むことができるのですよね。一緒にしなやかにいきましょう。
黒川さんの独立を祝して
2013年6月25日
花田 光世