1992年4月より、リクルート・グループ14年勤務/・首都圏の中小企業の人材採用、開発支援・キャリア支援サービスの地方自治体担当・中央省庁 全国企業人材ニーズ調査担当
2006年7月より、大学向けコンサルテーション会社10年勤務/・全国の大学のキャリア支援、授業講師・キャリア支援、教務改革支援、コンサル担当
2016年3月、株式会社サードインパクト設立/・千葉県商工会議所連合会 2016年度 中小企業人材採用サポート事業 総括責任者・現在、全国の中小企業16社の人事・採用コンサルティングを実施
私は会社を立ち上げ、御蔭様で5年目に入りました。ようやく軌道に乗り始めたところです。
私自身、あれほど怖がっていた五十路になりました。
黒川さんとの新橋第一ホテルアネックスでのショッキングな出会いから、もうすぐ20年になろうとしています。20年前、株式会社リクルートで地方行政および国の政策への企画提案チームの職務に携わったのですが、人生はおもしろいで、あの時の異動がなければ、今の私はありません。
"ショッキング"というのは、黒川さんと出会ってすぐの「澤田は、なんでこの事業部に来たんだ?」という問いかけでした。未熟だった私は、目を丸くし、何もこたえられませんでした。「異動で行けと言われたからかぁ?」こう言われたときの情景は今も覚えています。対応力とか、コミュニケーション能力とか、そんな薄っぺらなもので返せる問いではなかったわけです。この時の「気持ち」は、同じような場面で今でもフラッシュバックします。
その後、GCDFキャリアカウンセラーの資格を取得しましたが、その後の私の経歴やこれからの使命感を生む「きっかけ」となりました。使命感とは「キャリアカウンセラー、キャリアコンサルタントという職種の活躍の場を創造する」ということです。
思い返せば、黒川さんと出会った当時、私はとんでもなく未熟な30代のビジネスマンでした。リクルートグループに入社し、もうすぐ10年が経とうとしていたのに。
「お前はどうしたいの?」
この言葉は、黒川さんに限らず、リクルートの人間であれば四六時中、問われ、問い、答え、怒られ、を繰り返す問答でした。飲み会でも、業務上の相談でも、何気ない会話でも際限なくこの問いは繰り返されていました。リクルートでは、この問いの繰り返しの中で、考え、成長し、成果を出していくのです。
私は未熟さ故に、当時は数々の諸先輩からのこの問いになかなか答えられずにおり、「お前はどうしたいの?」に「なんて応えればいいのだろう」と"正解"ばかり探していたような気がします。
黒川さんのような「この問いの"権化"のような方」の下、3年従事させて頂いても答えらず、むしろ嫌悪感を覚える程、心底窮したものでした。
この答えは「自分に対してするもの」だと気づくまで、ずいぶんと時間がかりました。
「一人称で答えろよ」
黒川さんからこの言葉が出る時は、いつも表情が変わります。これは例のあの問いの言い換えです。簡単そうで、実は鋭い刃物のようでした。
フランクル「夜と霧」の第8章には、同じような鋭い示唆が書いてありました。
「人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。」
今でこそ、この一節は重く受け止めることはできますが、当時の未熟な私には、「お前どうしたいの?」「一人称で答えろよ」という問いに応答することへの難解さは、苛立ちを覚える程、一筋の光も見えないものでした。
人事異動で事業部を離れ、黒川さんと別れて、関連会社に転職をした後でも、ずいぶんと長い年月、この鋒(きっさき)は私に突きつけられたままでした。
それがつい最近、"いわゆるキャリア支援とは?"といった「世俗的な話題」を黒川さんと飲みながら話している時に気づかされることになったのです。
「キャリアは"生き様(いきざま)"だ」
黒川さんのこの言葉は、長い年月、苛立ちを覚えた例の"問い"に向き合う大きな気づきになりました。
「私の生き様は何だろうか」
思えば、以前の私は独立するなんて、露ほども思っていませんでした。しかし、予想しなかった「真摯なきっかけ」で雇われる身から離れ、独立し、自営という生き方を日々重ねています。
自営とはまさに、自分の「生き様」が問われる毎日です。(本当は雇われる身であれ、問われていたわけですが
)
自らが自営をすることで、戦後、私の父が蒲田の町工場を営んできた「生き様」のこと、そしてそれを受け継いだ兄の「生き様」を生まれて始めて受け留め、感じることができました。
そして軌道に乗り始めたのは、まだまだ未熟な私の「生き様」に対価を渡してくださる皆様や応援をしてくださる皆様のおかげに他なりません。感謝、感謝、感謝しかありません。同時に「関係性の中に生かされている自分」を痛切に感じています。誤解を恐れずに言えば、"生き様"を毎日毎時、問われる今の状況下の中で、ようやく「関係性の中に生かされている自分」に気づけたことになります。仏教の三法印を拝借させて頂くのであれば、まさに「諸法無我」です。関係性の中にしか、私は存在しません。
「おそいよ、気づくの。」
と黒川さんは言うと思います。私は独立自営というこの極限に身を投じないと"自らの生き様"を見いだせなかったのです。
黒川さんに、昔「50代になるのが怖い」と吐露したことがあります。その時は完全に一人称の言葉でした。意外にも黒川さんは「だったら、心配ないよ。」と言ってくれたのを覚えています。どうなるか知らないけど、そんなふうに思っているのであれば、時が来ればたつにも生き様を刻む時が来るだろう、と予見されたのでしょうか。
今思えば、その恐怖は自分の何も無い生き様に「不安を覚える」という若かった頃にはなかった内的衝動だったのだと思います。その恐怖からその後、様々な模索が始まり、現在に至ったのだと思います。
自らの生き様への執着と追及。
今はその日々です。私にとって「働く」という意味は、こうすることで、この社会に少しでも一人でも多く良い影響をお返しできればと深く感じるに至るわけです。
五十路に入り、ようやく私の「働く」ということに、意味を為すようになったのかもしれません。
やっと「これでいいのだ」と思えるようになりました。
コロナ禍、時代が大きく変化しています。混沌としています。不安の渦です。しかし、どんなことがあってもゆるぎない"生き様"があれば、「これでいいのだ」と言えるように思います。
2021年1月1日
澤田 辰雄